征夷大将軍に任ぜられた足利尊氏は、いとこの上杉憲顕を越後守護に任命しました。
これが越後と上杉氏の最初の関わり合いです。
1340年頃と考えられており、国府(直江津)に本拠を置きました。
上杉氏は後に、山内・扇谷・宅間・犬懸・庁鼻・越後などに分かれましたが、憲顕は山内上杉氏の祖となります。
越後守護職は憲顕の子憲栄へと伝えられ、この憲栄が越後上杉氏の祖となります。
●長尾と越後
長尾氏は相模国高座郡長尾郷が本拠。
何らかの伝手で上杉家に仕官し、新田義貞軍との戦いで戦功があり越後守護代に任ぜられました。
初代越後守護代は長尾景恒でその子孫が守護代を相続することになりました。

●上杉房能
6代越後守護上杉房定には、定昌・顕定・房能の3人の息子がありました。
顕定は8代将軍足利義政の要請で関東管領を相続。
定昌は原因不明の自害。
明応3(1494)年、房定が没すると房能が7代越後守護を相続しました。
世は下剋上。
永正4(1507)年8月1日、守護代長尾為景は房能の養嗣子定実を擁立し、房能排斥の兵を挙げました。
府中を追われ、兄である関東管領上杉顕定を頼って逃亡。
ついに松之山まで落ち延びたましたが、8月7日午後2時頃、眼下に見える信濃川には為景の大群がひしめき、観念して自刃。
現在、松之山天水越の松里小学校脇に「管領塚」があります。
房能自刃の地を記すものですが、房能は越後守護であり、関東管領ではありませんでした。
兄である関東管領、顕定と混同されたのでしょう。

●房能と松之山温泉
房能には嗣子が無く、娘の「かみ」に婿を迎えることになり、
文亀3(1503)年結婚式を挙げることになっていました。
ところが、かみに「はれもの」ができたため延期して、松之山温泉で湯治。
はれものも良くなり、その年の暮れには無事祝言を挙げることができたそうです。

●謙信の時代
越後守護上杉房能を討った長尾為景は房能の弔い合戦を平定。
幕府は永正5(1508)年11月16日、上杉定実を越後守護に、長尾為景を守護代に補任しました。
天文17(1548)年12月30日、長尾為景の子、景虎は栃尾城から春日山城に入り、兄晴景に代わって守護代長尾家を相続しました。時に19歳。
2年後に越後守護上杉定実が死去。嗣子がなかったので越後上杉家は断絶しました。景虎は天才的な軍事能力で越後を平定。
天文21(1552)年、関東管領上杉憲政が北条氏康に敗れ、景虎を頼って逃げてきました。
永禄3(1560)年、「上杉憲政の関東帰城のお供をするため」という大義名分を掲げ関東に出陣。破竹の勢いで北条方諸城を攻略しました。
すると閏3月16日、上杉憲政のたっての願いで山内上杉家を相続し関東管領に就任。憲政の一字を賜り政虎と改め、以後上杉氏を称しました。
同年の暮れには将軍足利義輝の一字を賜り、輝虎と改めました。
元亀元(1570)年、北条氏康の子氏秀を養子として迎え、景虎の名を与え、自身は法号「不識庵謙信」を称しました。
軍事的な面だけで評価されがちですが、謙信は領国経営手腕に優れ、越後に生活の向上と繁栄をもたらしました。

●景勝の時代
天正6(1578)年3月13日、謙信が49歳で生涯を閉じると、
養子の景勝と景虎が家督相続をめぐって争いました(御館の乱)。
景勝は弘治元(1555)年、坂戸城主長尾政景の二男として誕生。
永禄7(1564)年、謙信の招きで養子となりました。
景虎は天文23(1554)年、小田原城主北条氏康の七男として誕生。
元亀元(1570)年、謙信と氏康が和睦した際、人質として春日山城に入城しました。
御館の乱は天正7(1579)年、景勝の勝利に終わり、その後2年にわたった内乱も平定し、景勝が越後国主の座に着きました。
豊臣秀吉が天下を統一すると、徳川家康や伊達政宗への牽制のために、会津に移封を命じられます。
ここに200年以上に渡った越後上杉の時代の終焉を迎えたのです。

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