松之山・管領塚の由来

 上杉房能公とは?

 室町時代、このころの越後は南北朝の争いが各地でさかんにあり、建武の新政直後の松之山及び周辺は南朝方でした。南北朝の争乱は北朝=幕府方の優勢となり、足利尊氏がこの頃覇権を着々と確立しつつありました。建武4年(1337)、尊氏は南朝勢力を一掃するため母方のいとこ上杉憲顕を越後国の守護に、一族の二木義有を松山保の地頭職に任じたのです。(松之山はこの時代松山保と呼ばれていました。松山保には、建武以前から地頭職は置かれていたようで、少なくとも200年以上にわたって存在し室町幕府要人の支配にあったようです。)
この時より、上杉氏と越後のかかわりが始まりました。

 明応三年(1494)に、上杉房能が越後守護職を父の死により継ぎ(憲顕より七代目)、守護代の長尾氏でも能景の代となりました。このころの越後は鎌倉公方・関東管領・守護・守護代・国人らの争いが展開され戦乱が絶え間なく続き、下克上の風潮が蔓延しつつありました。
 能景が戦死し子の為景(上杉謙信の父)が守護代を継ぐと為景は声望を集め、それを警戒する守護房能と対立するようになりました。
 永正四年(1507)8月1日為景は房能の養子定実を擁して守護排斥の兵を挙げ、同年8月房能は敗れ、府中〈上越市五智地区)を追われて兄の関東管領上杉顕定を頼り、松之山まで落ち延びてきます。眺望のきく天水越の矢筈の山頂に登った所、眼下の信濃川には為景の大軍がひしめいていた(しかしこの大軍は、朝霧に包まれた石ころだったという。)逃げ切れぬと観念した房能は、8月7日未の刻(午後2時頃)臣下百余名とともに自刃しました。

 温泉街から1キロ離れた松里小学校の校庭の隅に、「管領塚」の碑と「正四位上杉房能自刃之跡」の石柱があります。石柱はかつて房能が後柏原天皇の即位の費用を献上した功績により、大正四年に正四位が追贈され、これを記念して建てられたものです。(ですが、房能は越後守護であって、関東管領の役職ではありませんでしたが「管領塚」になっています・・・。)

 房能の妻「綾子の方」はここより逃れて刈羽郡黒姫山山麓の旧鵜川村女呑に逃げ延び、土地の人々に「綾子舞」を伝えたと言われており、現在柏崎市女谷地区において継承されています。


 上杉房能と松之山の関係

 上杉房能には「かみ」という娘がおり、文亀三年(1503)上条城主上杉房実の子・定実を養子に迎え、かみとの祝言を8月19日に予定していました。ところが、当のかみに腫れ物ができたため祝言を一時延期し、松之山へ湯治に来るのです。やがて娘の腫れ物も治り、文亀三年の暮れにめでたく祝言を挙げたそうです。
 時の支配者層の間では、松之山の出湯が広く知られていた事が読み取れる史料も残っており、愛娘のかみを湯治させた房能も松之山の出湯の効き目を知っていて、自身もすでに何度か訪ねていたのでしょう。


 今年は、上杉房能公が松之山天水越にて自刃してから500年目にあたります。終焉の地である松之山では、長きにわたり「管領塚」を建立し供養する一方、房能公を題材とする歌や舞踊の保存・継承に努めてきました。そこで、500年という節目の年にあたり「上杉房能公五百年祭」を行います。 
 パンフレット

期日:平成19年8月12日(日)  

会場:舞踏・講談・・・山の上の能楽堂(十日町市松之山)
    ※雨天時は松之山体育館にて開催します。

日程:上杉房能公を偲んでの舞踏と講談(10時〜12時)
    ・舞踏「松之山管領塚物語」
    ・講談「管領塚の由来」
    ・舞踏 国指定重要無形民俗文化財「綾子舞」

     ※出演者 相沢江美子、神田愛山、綾子舞保存振興会

    上杉房能公を偲ぶ俳句会(9時〜15時30分)
     ※清記〜表彰の会場は松之山自然休養村センターで行います。
     ※俳句会参加者で昼食をご希望の方は1,000円にてご予約承ります。

※当日9時からは正法寺檀家主催による上杉房能公500年忌法要が「管領塚」(十日町市松之山天水越)で行われます。