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茶色のライン

志賀夘助伝 〜虫と歩んだ104年〜 ①

茶色のライン

貧しい家に生まれ
志賀夘助さんは、1903年(明治36年)1月、松之山村(現十日町市松之山地区)新山で、しんしんと雪の降り積もる中、生まれました。
貧しい松之山村の中でも、農地を持たない夘助さんの家はとりわけ貧しく、細々と商売をして生きていくのが精いっぱいの家でした。白い米が食べられるのは大晦日と小正月の年2回だけです。
昼飯はなく、1日2食。雑粉を練ってアンボを作り、囲炉裏の温かい灰が残る中でころころと転がして焼いてよく食べました。夘助さんは生まれながら体が弱く、病気がちでした。栄養が足りなかったことも原因でしょう。


貧しい家に生まれ

東京へ行こう
小学校を卒業した後、小学校の校長先生の家に住み込みで働きながら高等科(現在の中学校)へ進みました。しかし、家の手伝いで学校に行くことができず、授業についていけません。それでもなんとか高等科を卒業することができました。
ちょうどそのころ、松之山で石油が噴出し、石油会社の工場ができ、夘助さんはそこで働き始めました。ところが半年もすると石油が出なくなり、工場が閉鎖されてしまいました。
1919年(大正9年)、16の夏。「東京へ出よう」と決心したのです。
いつぞや見た赤いオートバイが、目標になっていました。オートバイに乗って帰れるようになるまで、松之山には帰らないと心に決め、ゆかた1枚と手拭い2枚、それに石油会社で働いて貯めた10円を手に鉄道で東京へ向かいました。
朝の5時に家を出て、上野に着いたのは翌日の午前9時でした。


東京へ行こう

昆虫に魅せられる
東京では時計屋で奉公することになりました。
しかし、そこのおやじは、酒を買うために奉公人の夘助さんの金まで借りるような、とんでもない人でした。ここでは駄目だと暇乞いをすると、時計屋のおやじに「兄がやっている昆虫標本を作る商売を手伝ってみないか」と言われました。
平山昆虫標本製作所では主に、学校の理科教材で使う昆虫標本を作っていたのです。
棚の昆虫標本箱を見せてもらうと、たくさんのチョウやバッタが標本になっていました。「なんてきれいなんだろう。」生まれて初めて見る昆虫標本に、感嘆の声を上げました。そして、すぐにその日から昆虫標本製作所で奉公することになりました。
1920年(大正8年)、17歳のことです。早く店にあるような立派な昆虫標本を作ってみたい、と期待がふくらみました。


昆虫に魅せられる