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茶色のライン

志賀夘助伝 〜虫と歩んだ104年〜 ④

茶色のライン

さびない針が作りたい
戦争が終わり、防空壕に入れてあった標本を取り出してみると、洋銀製昆虫針の全部に青さびが出ていました。
これではだめだ。洋銀ではなく、何かさびないもので針を作らなければ…。思案の末、ステンレスで作ることを思い立ち、職人に持ちかけます。しかし、どこへ行っても「ステンレスは硬いのでとてもできない」とすげなく断られました。何ヶ月もほうぼうを探し歩き、ようやく腕のよい職人を見つけて、ようやくステンレス針ができあがりました。
画期的なさびない針の誕生です。
その後も20年以上かけて開発を続け、ようやく使いやすい有頭ステンレス針が完成しました。何としてでも作りたかった商品だったので、すがすがしい気持ちになりました。

さびない針が作りたい

昆虫ブームの到来
そして1965年(昭和40年)ごろ、昆虫ブームに火がつきました。夏休みの宿題に昆虫標本作りが出され、子どもたちは競って昆虫採集に熱中したものでした。
昆虫ブームの頃は、各地で昆虫の採集会が催されます。夘助さんは一緒に出かけては子どもたちの質問に答えたりしていました。「子どもたちの昆虫が欲しい。昆虫を知りたいという気持ちが嬉しかった。」と夘助さんはおっしゃっています。
「虫けら」などとはもう誰も言わなくなりました。待ち望んでいた「昆虫普及」の時代がやってきたのです。夘助さんのそれまでの苦労が報われたのです。

昆虫ブームの到来

蝶の標本を故郷に
昆虫採集や昆虫標本の普及に努めた功績が認められ、1992年(平成4年)、松之山町(現十日町市)の名誉町民になりました。
生家の近くには、全国の昆虫愛好家など800人もの個人・団体から集められた募金を元に、顕彰碑が建てられました。それを機に、秘蔵のチョウのコレクション約3800点を松之山町に寄贈しました。寄贈した標本を展示する施設をつくろうという話になり、2003年(平成15年)に「森の学校」キョロロが建てられたのです。
日本の昆虫学の発展に偉大な貢献をされた夘助さんは、2007年(平成19年)4月、104歳で静かに息を引き取られました。夘助さんが生涯をかけた昆虫普及への功績は、「昆虫採集の父」、また「日本一の昆虫屋」として、これからも語り継がれていくことでしょう。

蝶の標本を故郷に

夘助さんの記念碑

▲ 松之山新山に建てられている「志賀夘助翁顕彰碑」