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松之山温泉の歴史


○伝説
「7、8百年前、傷ついた一羽の鷹が毎日同じ場所に舞い降り、茂みに潜んでいるのを
不思議に思った木樵(きこり)が、その茂みを探したところ、そこにはこんこんと湧く熱泉があり、鷹はその湯で傷を癒していた」というのが源泉発見にまつわる伝説です。
それ以来、松之山温泉は別名「鷹の湯」・「霊鷹の湯」と呼ばれています。
 
明治9(1876)年、泉源を巡る裁判が審理されたとき、湯本村の高藤与惣太は、松之山温泉の由来について、「温泉発見ノ事柄、年寄ノ伝説二ヨリ」という条件付きながら、次のような上申を行っています

「該村ノ儀、古ハ雨濃ト唱エ、貞治年間(1362〜68)草創ノ土民庄三郎祖先、勘左街門祖先、両人幽谷渓間ヲ見分セシ処、勃然トシテ湧キ出ル湯アリ。両人喜悦シ、コレヲ開発シテ小屋ヲ建テ、近里ノ人ヲ浴サシメ、温泉守護ノ神トシテ少彦名ノ小社ヲ建築セシ由、コレ即チ温泉発見ノ原由ト申ス事二候
永和4(1378)年山崩レノ為、該温泉口ヲ始メ少彦名ノ社マデ土中ニ埋リ、領地頭上杉家ヘ上申シ、御見分ノ上御普請仰セ付ケラレ、近郷ノ助力ヲ請ケ、土石ヲ堀流シ、数年ヲ経テ除カリ、元ノ温泉場再興セントナリ。」

少彦名命(スクナヒコナノミコト)は大国主命が病に伏したとき、速水の湯を運んで湯浴みさせたところ、やがて回復したという故事にちなんで、大国主命・少彦名命の二神を温泉守護とする信仰や伝説が各地に伝えられています。
しかし、湯本の諏訪神社は建御名方命(タケミナカタノミコト)を祭神としています。
また、松之山温泉では古くから、薬師如来を温泉守護として祭ってきました。
「少彦名ノ小社」の記述とは相容れませんが、地元の人々に「薬師様」と親しまれている堂は温泉街を見守るようにひっそりと立っています。
ついで永和4年の記述については、これが本当だとすると松之山温泉の歴史はさらに遡ることになりますが、確証はありません。

○上杉房能と松之山温泉
時の越後守護職上杉房能は、娘のかみと、上条城主上条房実の子定実との祝言を文亀3(1503)年8月19日に予定していました。ところが、かみに腫物ができたため祝言を延期し松之山温泉でその傷を癒したといいます。
房能自身も何度か松之山を訪ね、その効能を知っていたのでしょうか。
しかし、奇しき因縁か、かみが湯治にきた4年後、房能は守護代長尾為景と争って敗れ、
松之山温泉にほど近い天水で自らの命を絶ってしまいました。
房能亡きあとは、戦国乱世の時代、旅人が往来するわけもなく、わずかに近里の村人が汗を流すにすぎない山の出湯であったと思われる。

○湯治場の誕生
松之山郷では寛文9(1669)年から、年に金二分の出湯役(税の一種)が課せられています。これは江戸時代に入って民心も安定し、往来する旅人が増えるにつれて湯治に立ち寄る者の増え、宿屋を営む者が出てきたことによる課税でした。天和検地帳(1683)によると現在の松之山温泉街に三つの湯小屋場があったと記録されています。
湯小屋は和泉屋の隣にありましたが、まだ一面川原だったようです。

湯治客は木賃(宿泊料)と湯銭を払って宿をとりました。
湯銭は宿屋の手を経て庄屋の手元に集められ、庄屋はこの湯銭で出湯役を納め、湯小屋や薬師堂の維持・補修の費用に充てていました。
湯治客は7日間を一回りとして、7日ごとに15文ずつ払っていました。
享保年間(1716〜36)には、湯銭・木銭共で一回り一座敷300文と定められ、湯小屋には公儀の制札が掲げられていました。また湯小屋の周りには4軒の宿が軒を並べていました。
松之山温泉は薬効高い温泉として、湯治客で賑わうようになります。
相撲の番付風に順番をつけた「諸國温泉鑑」(別紙参照)では、前頭の上位に名を列ね、越後の温泉では筆頭となっています。この番付を見るだけでも、松之山温泉の歴史の古さと、薬効の高さを確認することができます。

○温泉騒動
明治に入ると、地租改正の余波が松之山温泉を襲いました。もともと、あいまいだった泉源地の所有権をめぐり、先祖代々の土地と主張する元庄屋職の村山氏と、宿屋の共有とする宿屋一同の争いが裁判沙汰になったのです。
この松之山温泉裁判は双方譲らず、ついに東京上等裁判所までもちこまれました。
明治9年、結果は村山氏の勝利となりましたが、莫大な費用がかかったこの裁判は、あまりにも大きな傷を残しました。

○明治・大正期の松之山温泉
裁判が終わった後、各旅館は経営者が変わるなど紆余曲折がありましたが、湯治客に恵まれ、明治44年には「松之山温泉案内」が発行されるなど、ようやく活気を取り戻してきました。
この当時の湯治スタイルは、行灯がランプにかわったくらいで、江戸時代と大して変わらず、
一回り7日間の連泊が主体でした。
しかし、大正時代に入ると交通事情が良くなり、大正10年には6人乗りフォードで人員輪送が開始され、また併せて市内電話が開設されるなど、徐々に観光温泉として新しい時代を迎えようとしていました。

○共同浴場の再建と温泉掘削
昭和2(1927)年、老朽化した共同浴場を取り壊し、モダンな共同浴場が新築されました。
また同4年には飯山鉄道が全線開通し、松之山温泉は以前にも増して賑わうようになりました。

昭和12年、天水越で新しい温泉(鏡の湯)の掘削に成功すると、それに触発されて、翌13年、湯本でも温泉掘削が開始されました。約半年の掘削の末、深度170メートルの地点から、毎分62.3リットル、摂氏92度の温泉を掘りあて、全旅館への温泉の供給が可能になりました。
それに伴い翌年、松之山温泉組合では、協定料金表を作成しました。
宿泊は、並、中、上、特上の四段階に分けられ、料金は一泊二食付並2円から、特上4円でした。

○温泉街の大火
戦後、松之山温泉では、長い戦争の解放感からか活況を呈し、湯治客があちらこちらで自炊する風景が見られるようになりました。
ところが、昭和29年8月19日の深夜、温泉街の上手の方で火事が発生し運悪く台風が接近していたため、その火は強風にあおられ、またたく間にすべてを灰にしてしまいました。
各旅館の適切な対処により、負傷者は一人も出なかったのですが、被害総額は1億3千万円という大災害となりました。
しかし、この時も松之山温泉はそれまでと変わらぬ多くの観光客に支えられ、また、旅館や商店の、借金返済の血のにじむような努力の甲斐あって、見事に復興をとげました。
そして、念願だった泉源地の村有化も実現し、翌年には共同浴場も再建され、生まれ変わった松之山温泉は新しいスタートを切りました。
火事後の復興.jpg
火事後、復興の様子

大火の後、新築された旅館の浴槽は、従来のものより大きく、一号井の湧出量では供給が間に合わなくなりました。そこで、昭和39年から二号井の掘削に取りかかり、約一カ月の工事の末、深度264メートル、摂氏約90度、毎分360リットルの熱泉を掘りあてることに成功しました。この二号井は温泉街の上手、湯本川に沿って湯煙を上げています。

○新源泉
市との契約分の温泉が各旅館に供給されていないことから、新たな井戸の掘削を要望していたところ、十日町市は温泉街を1kmほど登った上湯地内での掘削を決定。
平成19年8月、深度1301メートル、摂氏92度、毎分600リットルという新泉源の掘削に成功しました。
新源泉2.jpg
そして平成20年秋より、各旅館・施設へ配湯が開始されました。


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