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古道「松之山街道」と山城


上杉謙信は元亀2(1571)年5月20日、上野国沼田城将・河田重親に関東遠征を伝える書状を出しています。
この中で謙信は、春日山城を出発し、旧安塚町・旧大島村を通って、松之山郷、塩沢、
そして三国峠を通って沼田城へ出陣する予定を報じています。
この街道は三国街道といわれ、関東への重要な本街道でした。
また、松之山街道・農峰街道・魚沼街道・妻有街道・上田街道ともいわれていました。

「慶長2年越後国絵図」(1597作成)により、春日山城から関東への道を考えてみましょう。

春日山城−木田渡(上越市木田)−新井村(現存しない)−上市野江村(市野江)−真野新町(上真砂)−
上広田村(上越市三和区上広田)−にしき村(錦)−嶋倉村(島倉)−たかづ村(山高津)−はらい沢村(払沢)−
下横住村(上越市浦川原区横住)−まきの村(上越市安塚区牧野)−安塚町(安塚)−直嶺之城(安塚)−
ばうかね村(坊金)−ほその村(細野)−大嶋村(上越市大島区大島)−中野村(中野)−法師峠(大島区)を経て、
旧松代町へ通じていました。残念ながら旧松之山町の部分はありません。
松之山郷内では、小豆峠−室野−蒲生−松代−大平−菅刈−犬伏−薬師峠を通り、
十日町へ通じていました。

上杉謙信・景勝の時代には関東へ通じる軍用道であり、室野城(松代室野)や犬伏城(松代犬伏)は、
三国街道を監視する重要な任務を負っていました。
謙信はしばしば松苧神社に参拝し、戦勝祈願をしていたようです。
松苧神社には謙信寄進の軍配と小刀が所蔵されています。
江戸時代に入り戦がなくなると宿場ができ、一般庶民の往来も増えていきました。
特に松平光長治世時代(1624-1681)には宿駅制が整備されました。

菅刈〜薬師峠の間は松之山街道として、
1996年11月1日、文化庁が選定した「古道百選」に選ばれました。

松之山街道マップ
(クリックすると十日町市観光協会のサイトにある地図を表示します)

○小豆峠〜蒲生宿跡
http://www.tokamachishikankou.jp/uploads/gnavi/333.jpg

○蒲生宿〜松代宿
http://www.tokamachishikankou.jp/uploads/gnavi/333_1.jpg

○松代宿〜犬伏宿
http://www.tokamachishikankou.jp/uploads/gnavi/333_2.jpg


松之山郷南組(旧松之山町)には松之山街道の主街道は通っていませんが、
南組のうち、浦田口村に旧松代町の峠が属していたので、
その意味では南組の一部を街道が通過していたことになります。

松之山郷南組には次のように諸方へ通じる道がありました。

・松口〜小屋丸(旧松代町小屋丸)
・松口〜下山(旧松代町下山)
・赤倉〜海老(旧松代町海老)〜鉢(十日町市鉢)〜旧真田村本村〜十日町
・赤倉〜東山〜元屋敷(旧中里村貝野)
・大荒戸〜千年(旧松代町千年)〜松代〜柏崎 「柏崎街道」
・小谷〜夜泣き松〜赤坂橋〜室野(旧松代町室野)
・浦田藤原〜福島(旧松代町福島)〜室野
・西之前・北浦田〜鼻毛の池〜牛ヶ鼻(旧大島村牛ヶ鼻)
・坂中〜月池〜菖蒲(旧大島村菖蒲)
・坂中〜田麦立〜深坂峠〜野々海池〜信州白鳥
・天水越〜田麦立〜深坂峠〜野々海池〜信州白鳥
・天水島〜雁ヶ峰〜現津南町
・上鰕池〜旧中里村田沢
・東川〜豊原峠〜現津南町辰口
・中尾〜現津南町樽田


松之山郷南組の城跡

○高館城跡
五十子平字大滝に位置する標高423メートルの山城。
長禄年間(1457〜60)、伊勢盛富・盛種の居城と伝えられています。
松之山から豊原峠を越えて辰口へ至る街道の監視の大任を担いました。

○橋詰城跡
橋詰字東表に位置する標高455メートルの山城。
北方に高館城趾が、東方に東山城趾が、南方に秋葉山城趾が眺望できます。

○秋葉山城跡
中尾字山之田に位置する標高638メートルの山城。
中尾から津南町外丸へ、天水島から津南町樽田へ至る道の監視。

○東山城跡
別名を七通城、天尾山城、堀之内城ともいい、東山字南谷に位置する標高641メートルの山城。
東山から旧中里村小沢・宮中に至る街道の監視。

○藤原城跡
別名を福島城ともいい、黒倉字丹明倉に位置する標高478メートルの山城。
柏崎・善光寺街道、松之山・高田街道を監視する重要な拠点。
『温古の栞』には「永禄年中、城主松川大隅守は知勇に勝れ、上杉謙信軍団として戦功比類なく、
感状17通を賜ったという。天正6年の御館の乱のさい、長男刑部左衛門が上杉景虎に味方したため、
上杉景勝に攻められて落城し、上野国に退去したという」と書かれています。

○浦田城跡
別名を深山城ともいい、浦田字城ノ越および深坂に位置する標高1001メートルの山城。
上越地方では一番標高の高い山城であり、米山が一望でき軍事的要衝に立地。
浦田から深坂峠へ至る柏崎・善光寺街道を監視する重要な任務を負っていました。
戦国時代、浦田城から春日山城へ狼煙で連絡を取っていたと伝えられています。

○新山城後
『温古之栞』によると「建武年間、新田氏の勇将下坂又左衛門政成の居城と伝える。
政成戦死の後、重臣が後室を奉じて籠城。貞治年間、守護上杉憲顕に攻められて落城した。
その際、老若男女が麓の松川の深淵に沈められ、虐殺されたと伝える」
城跡は確認できず。

○大荒戸城跡
『温古之栞』によると、「建仁年間、佐々木盛綱の一族下野国那須郡の住人丹治左衛門俊秀が
ここに移住し、大関と姓を改め、上杉氏に属し、一族繁栄したというと伝える」
城跡は確認できず。

 

■深坂峠
信越国境の標高1080メートルにある深坂峠は、西大滝(飯山市照岡)から野々海川東方尾根を登り、
標高895メートル地点で白鳥から登る道を併せ、野々海池畔に至ります。
ここで野々海峠を越えて菖蒲(上越市大島区菖蒲)へ通じる道を分岐、深坂峠頂上に至ります。
越後側は急斜面を下り、浦田に至り、松代で直江津から外丸(津南町外丸)に至る松之山往還と交わり、
柏崎往還が柏崎市に至ります。
この道は古代大和から吉蘇路(木曽路)を経て越地方へ通ずる直路として開かれたものと推考されます。
右の説明によれば、古代の東山道の間道として、信濃路から越後路に出る山岳道路として開かれたものとされ、
そこに深坂峠の地名が生まれていると推定されています。この道は近世や近代初期にも利用された道路で、
「塩の道」や「米の道」の道であり、古くからの重要な産業や文化のルートでありました。


出典「松之山町史」

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