神社仏閣
新潟県の神社の数は日本一。全国に約8万社あるといわれている法人格を持つ神社のうち、新潟県には4700社以上もあり、3800社余の兵庫県を大きく引き離して断トツの1位なのです。明治後期に政府が出した神社の統廃合を進める合祀政策に新潟県が消極的だったことや、明治時代の新潟県の人口が日本で最も多かったことなどが主な理由として考えられています。人口が多く、農業や漁業が盛んだった新潟は村落共同体の数も自然発生的に増え、それに比例して神社数も多いということです。また、村落に密着した神社はお祭りも積極的に行われ、数多くの神社が現代までその姿を伝えています。
松之山にも各集落に鎮守様があります。宗教法人として登録を受けて祭祀されている神社が29社あり、それぞれの集落では年に数回祭事を催しています。雪解けを待って春祭り、田植えが終わった後の田休み祭り、そして大祭ともいうべき秋祭りです。
過疎化、高齢化が進み神社の維持管理や祭事の挙行が困難になりつつある昨今ですが、規模を縮小しつつも連綿として行われています。このことは鎮守様への土着的な信仰が受け継がれており、かつまた祭事が楽しい集落の行事となっていることをよく表しています。
松之山に現存する寺院は曹洞宗が4寺、浄土真宗が2寺です。曹洞宗はすべて旧松之山村、一方の浄土真宗はすべて旧浦田村にあります。
曹洞宗は開祖道元が宋(中国)から伝えた禅宗で、道元から数えて4代目総持寺開祖瑩山の頃、全国に広まりました。同じ頃伝わった禅宗の臨済宗が幕府など権力者の庇護を受けたのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け地方へと教線を伸ばしていきました。観音寺や正法寺は元々密教系の寺院だったようですが、15世紀から16世紀にかけて曹洞宗の寺院として開山されました。陽広寺も16世紀、松陰寺は少し時代が下り17世紀の開山です。
越後にゆかりの深い親鸞が開祖の浄土真宗は、8代蓮如の時に親鸞の教えを民衆にわかりやすく説くという積極的な布教活動により全国的に広がりました。大厳寺はかつて現在の大厳寺高原の池のあたりにあり、19代続いた真言宗の寺院と伝えられていますが、1708年に現在地に移転し大谷派として改宗されました。常照寺は高田派本山専修寺の山内にあった寺で、1923年に現在地に移転創立されました。
松之山には常住の神職や住職のいる寺社がほとんどなく、寺社内を見学するのは難しいのですが、一般参詣が可能なおすすめのスポットをご紹介します。
【松陰寺】(しょういんじ)
日本に3体しか存在しないといわれているマリア観音が安置されている。ガラス越しに拝観が可能です。
【湯本の薬師堂】
松之山温泉街奥にある仏堂。創立年月は不詳。明治25年に焼失し、翌明治26年に再建。本寺は陽広寺。
歴史ある温泉地には薬師堂を構えているところが多くあります。古来温泉は病気やけがの治療目的のために利用されていました。病苦からの救いを求め、医薬の仏である薬師如来を祀るのは温泉地として自然かつ必然的なことだったのでしょう。松之山温泉は古くから薬効高い温泉として湯治客でにぎわってきました。薬師堂内には明治時代の落書きや湯治客からの寄進物が多々あり往時を想起させます。
地元の女性たちが薬師講を形成し毎月お祀りを行ってきましたが、時代の変化とともに後継が難しくなり、現在では住民によって5月と11月の年2回開催されています。毎年1月15日に行われる小正月行事「むこ投げ・すみ塗り」では、前年に結婚した婿を崖下に投げ落とすむこ投げの舞台となっています。
周辺には不動滝や足湯を備えた湯守処「地炉(じろ)」、大地の芸術祭の作品「ブラック・シンボル」などがあり、また遊歩道の進路沿いでもあることから散策コースのスポットとして親しまれています。
【湯山の神楽】
神楽の語源は「神座」が定説といわれています。神が石や木、峰などの自然や事物に降臨し鎮座するという概念が生まれると、それが祭祀の対象となり豊穣や長寿などの祈祷が行わるようになりました。神座はそれらの所作全般を意味しています。
現在の神楽は宮中で行われる御神楽と、民間で行う里神楽に大別されます。
神楽は、現在、日本全国で伝承されており、宮中で行われる御神楽と、民間で行う里神楽の2種類に大別することができます。里神楽は巫女や神主、山伏などが伝え、全国各地に広まりました。
松之山では数集落で神楽が伝承されていますが、もっとも盛んに行われているのが湯山集落です。江戸後期に伝わったと考えられ、神楽を舞いながら路銀を稼いで伊勢参りをした、関東へ神楽による旅稼ぎに出たなどという話もあり古い伝統を持ちます。戦時中に途絶えましたが、昭和46年に保存会が結成され見事に復活しました。
毎年8月末の週末、松苧神社の祭礼の際に披露されていましたが、現在では松之山体育館で開催され、一般客の観覧も可能です。
おまけ
【松苧神社】
松之山郷の神社仏閣を語る上で避けては通れないのが松之山郷66カ村の総鎮守「松苧神社」です。
松苧神社は807年に坂上田村麿呂が蝦夷討伐遠征の帰途、奴奈川姫を祀るために旧松代町犬伏の松苧山(360m)に建立したと伝えられています。
祭神は青苧と五葉松を携えてきたという伝説があり、以来松之山郷および近郷の村々から麻織物の神として崇められてきました。また、源義家、上杉謙信、松平忠輝以降の高田城主らの祈願所であり、武将たちの信仰も集めていました。
謙信寄進の小刀、日の丸の軍配が伝えられています(別場所で保管)。
数え7歳になる男の子が成長の証に山頂の松苧神社まで自力で参拝する「七つ詣り」という行事が毎年5月8日の祭礼時に行われており、地元松代だけでなく松之山地域の子供でも参加する家庭があります。
本殿は1497年建立の木造茅葺で県内最古の木造建築です。豪雪に耐えるために木柄が太く、軒の出が少ないなど特異な形式の建築物です。1978年5月31日に国の重要文化財に指定されました。
松苧山には祭神が持ってきたという松があり、「松のある山」が松之山の地名の由来であるという説があります。1089年7月の越後国古地図には松野山という地名が記載されていて「松野山ガ領スル所、方二十里大沼郡トス」の記述から、松野山という豪族がいた可能性があります。鎌倉時代には松山保という幕府の直轄地となっていて、豪族の松山氏が領していたと考えられています。
信仰の対象であった松苧神社と松之山の地名に深いかかわりがあることは想像に難くありません。
松苧神社には車で行くことができません。登山道入口から徒歩で約20分要します。山歩き用の服装でお出かけください。
参考文献:松之山町史、新潟県神社庁ホームページ、曹洞宗ホームページ、神楽とわたしたちのくらし、十日町市観光協会ホームページ、十日町市博物館ホームページ