○先史時代
松之山には、渋海川流域、越道川流域などに縄文時代の遺跡があります。
この地域は比較的地すべりの影響を受けない安定地盤であり、眺望の開けている場所が多くあります。
縄文時代中期(約5000年前~4000年前)以降の遺跡が多く、少なくとも5000年前までには両河川の流域には人が暮らしていたことが分かります。
三桶地内にある深田遺跡には、信濃川系統、東北系統、関東系統、北陸系統の土器群が、交錯しながら出土しています。
弥生時代、古墳時代の遺構は発見されておらず、松之山の遺跡は平安時代まで下ります。

○出雲勢力の浸透

7世紀以前、越前・越中・越後は「越国(こしのくに)」と呼ばれていました。
高志国、あるいは古志国とも表記し、越州(こしのしま)とも称されていました。
中央から見れば、山々を越えていくところという認識に基づくものかも知れません。

神話伝承によれば、越国には奴奈川姫(沼河比売)がいて、巫女的呪術によって国を治めていました。
姫はまたの名を「黒姫」と称しました。
頸城地方の周りには黒姫山が三か所にあり、また各地には奴奈川社が多く存在し、松之山・松代の松苧神社の祭神も奴奈川姫になっています。奴奈川姫がこの地域の首長的存在であったことを物語っているようです。

「古事記」には、八千矛神(大国主命)の沼河比売(奴奈川姫)に対する求婚説話が収められています。
八千矛神(大国主)が高志国に賢女の麗女がいるときいて妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠みます。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚したというものです。

また、有名なスサノオノミコト(須佐之男命)による八俣大蛇退治物語の中にも、「高志の八俣大蛇」という記述があり、出雲人は高志を意識していたことは明らかで、出雲と越国が無関係でなかったことが分かります。

○大和政権の支配

「日本書紀」によると、崇神天皇の時、四道将軍派遣の記事があり、将軍の一人である大彦命が北陸道(高志国)を平定したとあります。大和政権の北進に伴い、その支配機構も整備されました。現在の新潟県には久比岐・高志・高志深江・佐渡の四国造がおかれました。
国造(くにのみやつこ)とは、一定の行政圏を統治する地方官で、松之山は久比岐国造の管轄下にあったと考えられます。

大化の改新以降、国郡制が整備され、7世紀後半までには、新潟県には頸城・魚沼・高志・蒲原の4郡も建てられていたようです。当初4郡は越中国に属していましたが、大宝2(702)年越後国に編入され、松之山は越後国頸城郡となりました。

「久比岐」は万葉仮名であり、特別な意味はありません。
頸城の語源は丘陵の頸部に設けられた「キ(柵・城)」という意味の「くび柵」だと思われます。

○奈良時代

大宝元(701)年、大宝令(※1)が施行され地方行政は国郡郷制となり、松之山は頸城郡五十公郷(いぎみごう)に属していました。
五十公郷は現在の上越市三和区および旧東頸城郡を含む地域でした。

※1 令は古代の行政法・民法のこと。

○平安時代

寛治3(1089)年7月の越後国之図には「松野山」という地名が登場します。
天水山の麓に描かれその背後には信濃川があり、現在の松之山一と合致します。
また、「松野山ガ領スル所、方二十里大沼郡トス」と記述されており、摂関家(※2)荘園(※3)である波多岐(はたき)荘、あるいは妻有荘のあった大沼郡(魚沼郡)の有力な荘園管理者の勢力下に、松野山という豪族がいたとも考えられます。
平安時代後期になると、松之山郷66カ村の総社松苧神社の神職が、松之山一円を支配する豪族松山氏として現れたとする説もあります。これは松苧権現の別当職(※4)林蔵寺が代々松山氏であったことに依っています。
松苧連峰には北五葉松が列状になって生育しており、松山の名は、北五葉の松山から起こった呼称だと考えられます。

源平時代には、越後国は鎮守府将軍(※5)平維茂の子孫と伝えられる城氏(※6)が掌握するところとなりました。
治承4(1180)年9月、源義仲(※7)が以仁王(※8)の令旨(※9)を奉じて、平家追討の兵を挙げます。
平家は城資職を越後守に任じ、出羽・会津・越後の兵を集めて信濃に進攻させました。「平家物語」には、この戦いに松之山の兵が参戦したことが記されています。

※2 天皇の外戚となり摂政・関白を独占し政治を牛耳った藤原氏。
※3 貴族や寺社の所有地。
※4 長官を指す言葉
※5 蝦夷討伐のために陸奥国におかれた役所の長官
※6 桓武天皇を祖とする平家の一門。平維茂の子平繁成が秋田城介(出羽の国秋田城主)となり、その子貞成が城太郎(城介の家の長男の意)と呼ばれ、子孫が城氏を名乗った。
※7 木曾義仲。源頼朝・義経兄弟のいとこにあたる。
※8 後白河天皇の第三皇子。
※9 律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。
平安時代中期以降は、皇族のものも令旨と呼ばれるようになった。

○鎌倉時代

文治元(1185)年、源頼朝は、越後・伊豆・相模・上総・信濃・伊予の6カ国を
関東御分国(※10)とし、越後守に安田義資を任じました。
松之山では豪族松山氏が力をつけていました。
律令制以来、国衙領(※11)であった松之山が時の執権北条義時(※12)の直領であったことを示す資料に「仁木文書」があります。
建武4・延元2(1337)年4月21日、足利尊氏が勲功のあった仁木義有を松山保(※13)の地頭(※14)に任じた文書に「北条義時跡」の記述があります。
執権の直領が恩賞の地として利用されていることを示しています。これは、松之山の地が早くから開発されていたことを裏付けているのです。

※10 鎌倉時代において将軍家が支配した知行国。
※11 平安時代中期以降の公領のこと。荘園に対する用語。
※12 執権は鎌倉幕府の最高職。源将軍が3代で途絶えてからは執権が幕府の実権を握る。北条義時は2代執権。源頼朝の妻となった北条政子の弟。
※13 古代の行政単位は国・郡・里であったが、11世頃に崩れ、国衙領内で郡・郷・保という行政単位になった。(郡郷制)
※14 鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。

○南北朝~室町時代

源義家(※15)を祖とする新田一族は越後において、大井田氏・里見氏・田中氏・鳥山氏・羽川氏などに分かれ、妻有庄や波多岐庄を中心に勢力を伸ばしていました。
正慶2・元弘3(1333)年5月8日、新田義貞(※16)が鎌倉幕府打倒の令旨を賜り挙兵します。
破竹の勢いで鎌倉幕府を倒した新田義貞は、建武の新政(※17)を始めた後醍醐天皇によって、越後守護職(※18)に任じられ、越後・上野・播磨を知行地として賜ります。

建武の新政下、後醍醐天皇と足利尊氏の関係が悪化すると、尊氏は鎌倉で後醍醐天皇打倒の兵を挙げました。
越後においても、足利方と新田方に分かれ長い抗戦を展開することになりました。

建武4・延元2(1337)年4月21日、足利尊氏は仁木義有(※19)を松山保の地頭職に任じ、上越地方の新田軍の撃滅を図りました。
暦応元・延元3(1338)年閏7月2日、新田義貞が討ち死し、新田軍は致命的な打撃を受けます。
翌8月11日、足利尊氏は征夷大将軍(※20)に任じられ、室町幕府を開きました。そして、いとこである上杉憲顕を越後守護に任じます。

仁木氏以降、約100年間松山保の支配者は現在のところ不明です。
越後守護上杉房能の被官長尾輔景が伊勢盛種の所領松山保を奪ったとき、文亀2(1502)年12月、11代将軍足利義澄が御内書(※21)を房能に下し、松山保を伊勢盛種に還付するように求める文書があるところから、松山保はそれ以前から伊勢盛種の所領だったことが分かります。
伊勢氏は桓武平氏の子孫平季衡の末裔だと伝えられており、室町時代には将軍の側近として幕政を担当しました。松之山の領主であった伊勢盛富・盛種は幕府の申次衆(※22)でした。

以降は「越後上杉氏と松之山」参照

※15 河内源氏の祖源頼信の孫。八幡太郎義家とも呼ばれる。源頼朝、足利尊氏の祖先にあたることから英雄視される。
※16 源義貞。河内源氏の一族で上野国(群馬県)に土着した新田氏の棟梁。
※17 鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による親政(天皇による政治)。武士層の不満を招き、足利尊氏の離反により、わずか2年半で瓦解。
※18  国単位で設置された行政官。
※19 仁木氏は足利氏一門。額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町)に土着した武将。
※20 令外官(律令制に規定のない官職)のひとつ。源頼朝が征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開いてからは武家の最高権威となった。
※21 室町幕府の将軍による私的な書状の形式を取った公文書。
※22 武士が将軍に謁見するときに取次を行う役職。

○近世

慶長3(1598)年正月、豊臣秀吉は上杉景勝を会津に移封し、4月堀秀治(※23)を越後に入封させました。
同年秀吉が没すると、徳川家康が権力を強め、慶長5(1600)年9月の関ヶ原の合戦に勝利し、江戸幕府を開きました。堀氏は徳川方につき、そのまま越後を治めました。
慶長15(1610)年閏2月、家康の6男松平忠輝が堀氏の遺領を継ぎ、慶長19(1614)年には高田城を築きました。
元和2(1616)年、忠輝が改易させられると、その遺領は細分化され小藩分立の時期を迎えました。松之山は高田藩領に組み入れられ、酒井家次(※24)、同4年には松平忠昌(※25)、
寛永元(1624)年3月には、松平光長(※26)が高田25万石へ転じ、忠昌は北之庄へ移封。以後、光長は57年間にわたってこの地を支配しました。この頃しだいに郷村支配機構が整備されました。
松之山郷は南北の二組に分けられ、松野山南(南山)組は旧松之山町の範囲とほぼ一致します。
大肝煎(※27)は浦田口村の村山家が勤め、組内31カ村の庄屋も草分けの有力農民が世襲しました。
延宝9(1681)年、5代将軍徳川綱吉が光長を改易すると、頸城・刈羽・三島・魚沼の4郡は幕府の直轄地となり、以後幕末まで代官による支配が続きました。

※23 織田信長の側近堀秀政の嫡男。以後秀吉、家康に仕える。
※24 徳川家康の家臣。酒井忠次の長男。家康のいとこにあたる。
※25 家康の二男結城秀康の二男。
※26 越前北庄藩主松平忠直の長男で、結城秀康の孫。
※27 数カ村から十数カ村を管轄する役職。大名主・割元・大庄屋・十村・郷頭とも呼ばれる。

○近現代

明治4(1871)年7月14日、廃藩置県。翌5年柏崎県に編入。
明治6(1873)年6月10日、柏崎県を新潟県に合併。
明治12(1879)年4月9日、郡区改正により頸城郡を3郡に分け、松之山は東頸城郡となる。
明治22(1889)年4月1日、町村制施行により松之山・松里・布川・浦田の4カ村ができる。
明治34(1901)年11月1日、松之山・松里・布川が合併し、松之山村となる。
昭和30(1955)年3月31日、松之山村と浦田村が合併し、松之山村となる。
昭和33(1958)年11月1日、町制施行、松之山町となる。
平成17(2005)年4月1日、十日町市・川西町・中里村・松代町と合併し、十日町市となる。

出典「松之山町史」

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