キョロロ

うすけの小部屋/志賀卯助チョウコレクション

志賀卯助氏

戦後、空前の昆虫ブームを巻き起こし、日本の昆虫採集の父とも称される
日本一の昆虫屋「志賀 夘助」氏の生涯を紹介し、氏により集められた3,800点を超す
世界のチョウコレクションの画像や情報を公開しています。

志賀夘助氏が収集したチョウコレクションの中には、今ではワシントン条約(※1)で国際取引が禁止されている種も多数含まれています。この他にも、現在は絶滅危惧種(※2)に指定されている種もあることから学術的にも大変貴重なコレクションとなっています。

(※1)ワシントン条約:絶滅の恐れのある野生動植物の国際的な取引を規制する条 約。チョウの仲間ではシボリアゲハ属やトリバネアゲハ属、左の写真にあるテングアゲ ハなどの仲間が含まれている。
(※2)絶滅危惧種:絶滅の危険にあり、採取や売買が禁止されている種を指す。夘助氏のコレクションにはキイロウスバアゲハやオオルリシジミなど貴重な標本が多数含まれている。

志賀夘助氏の生涯

1903年(明治36年1月6日) 父志賀恒七氏の次男として新潟県松之山村(現十日町市松之山地区)で誕生する。家が貧しかった夘助氏は重要な働き手の一人であったため、昆虫採集とは無縁の生活を送る。高等小学校(現在の中学校)を卒業し、一旦地元の石油工場に就職するも半年足らずで工場は閉鎖されてしまう。これをきっかけに、故郷に錦を飾らんと上京を決心する。
1919年(大正8年:16歳) 上京当初は浅草の時計屋で奉公したが、その後“平山昆虫標本製作所”で働くようになる。ここで初めて昆虫標本と 出会い、そのすばらしさに大きな衝撃を受けるとともに、この仕事を自らの天職とする決意をする。
1931年(昭和6年:28歳) 平山昆虫標本製作所から独立し、“志賀昆虫普及社”を設立する。昆虫学の普及には安い採集用具や標本作製用具 が必要であると考え、戦争の色が濃くなる中オリジナル商品の開発に邁進する。

1946年(昭和21年:43歳) 戦争が終わり、採集用具や標本作製用具の製造を再開する。防空壕の中に置いていた洋銀製の昆虫針が錆びてしまったことをきっかけに、錆びないステンレス製の針の開発に着手する。
20年以上かけて開発を続け、ようやく使いやすいステンレス昆虫針(有頭シガ昆虫針)が完成する。
今も世界中で愛用される画期的な製品となる。
1957年(昭和32年:54歳) 日本科学標本協会が設立され、初代会長になる。
(昭和50年まで18年間)
1964年(昭和39年:61歳)頃 昆虫ブームが到来し、日本中の子どもたちが昆虫採集や標本作製に夢中になる。
夘助氏が夢見ていた昆虫普及の時代が現実のものとなる。
1974年(昭和49年:71歳) 昆虫普及のために様々な用具を開発した功績がたたえられ、黄綬褒章を受章する。
1992年(平成4年:89歳) 昆虫採集や昆虫標本の普及に尽力した功績が認められ、松之山町(現十日町市松之山地区)の名誉町民となる(現在は十日町市名誉市民)。
1996年(平成8年:93歳) 自身の人生を振り返った著書『日本一の昆虫屋 ―わたしの九十三年―』を出版。
  • 志賀夘助氏が開発した昆虫採集用具(三角ケース・殺虫管・毒ツボ・三角紙・各種ピンセット・吸虫管)

    ▲ 志賀夘助氏が開発した昆虫採集用具
    (三角ケース・殺虫管・毒ツボ・三角紙・
    各種ピンセット・吸虫管)

  • 夘助氏が開発したステンレス昆虫針(有頭シガ昆虫針)

    ▲ 夘助氏が開発したステンレス昆虫針
    (有頭シガ昆虫針)

1997年(平成9年:94歳) 長年をかけて集めた3,800点を超える世界中のチョウコレクションを松之山町(現十日町市松之山地区)に寄贈する(現在「森の学校」キョロロが保管・管理)。
2007年(平成19年) 4月15日、永眠。享年104歳。

志賀夘助伝〜虫と歩んだ104年〜

  1. 貧しい家に生まれ

    志賀夘助さんは、1903年(明治36年)1月、松之山村(現十日町市松之山地区)新山で、しんしんと雪の降り積もる中、生まれました。貧しい松之山村の中でも、農地を持たない夘助さんの家はとりわけ貧しく、細々と商売をして生きていくのが精いっぱいの家でした。白い米が食べられるのは大晦日と小正月の年2回だけです。昼飯はなく、1日2食。雑粉を練ってアンボを作り、囲炉裏の温かい灰が残る中でころころと転がして焼いてよく食べました。夘助さんは生まれながら体が弱く、病気がちでした。栄養が足りなかったことも原因でしょう。

    貧しい家に生まれ
  2. 東京へ行こう

    小学校を卒業した後、小学校の校長先生の家に住み込みで働きながら高等科(現在の中学校)へ進みました。しかし、家の手伝いで学校に行くことができず、授業についていけません。それでもなんとか高等科を卒業することができました。ちょうどそのころ、松之山で石油が噴出し、石油会社の工場ができ、夘助さんはそこで働き始めました。ところが半年もすると石油が出なくなり、工場が閉鎖されてしまいました。

    1919年(大正9年)、16の夏「東京へ出よう。」と決心したのです。いつぞや見た赤いオートバイが、目標になっていました。オートバイに乗って帰れるようになるまで、松之山には帰らないと心に決め、ゆかた1枚と手拭い2枚、それに石油会社で働いて貯めた10円を手に鉄道で東京へ向かいました。

    朝の5時に家を出て、上野に着いたのは翌日の午前9時でした。

    東京へ行こう
  3. 昆虫に魅せられる

    東京では時計屋で奉公することになりました。 しかし、そこのおやじは、酒を買うために奉公人の夘助さんの金まで借りるよ うな、とんでもない人でした。ここでは駄目だと暇乞いをすると、時計屋のおや じに「兄がやっている昆虫標本を作る商売を手伝ってみないか」と言われまし た。 平山昆虫標本製作所では主に、学校の理科教材で使う昆虫標本を作っていたのです。 棚の昆虫標本箱を見せてもらうと、たくさんのチョウやバッタが標本になっていました。「なんてきれいなんだろう。」 生まれて初めて見る昆虫標本に、感嘆の声を上げました。そして、すぐにその日から昆虫標本製作所で奉公すること になりました。 1920年(大正8年)、17歳のことです。早く店にあるような立派な昆虫標本を作ってみたい、と期待がふくらみま した。

    昆虫に魅せられる
  4. 初めての昆虫採集

    当然昆虫を触らせてくれるだろうと思って入ってみると、待っていたのは子守りとご飯の支度、掃除といったおさんどさんでした。待つこと数ヶ月、先輩の清どんに連れられて、初めて昆虫採集に行きました。原っぱに行くと、チョウやトンボがたくさん飛んでいました「標本にしよう。」と思って昆虫を採るのは初めての経験です。チョウにはいろいろな色も形も大きさもあって、ごく近所の野原でさえ、 さまざまな種類が飛んでいることに驚きました。チョウやトンボの姿をじっと観察する、狙いを定めて補虫網を振りかざして、思った通りにそれらを採る、手に入れてまたじっくりと見つめて大切に持ち帰る…。どのときをとっても物珍しく、心はずむことでした。 自分で選んだ道が、間違っていなかったと思い直していました。

    初めての昆虫採集
  5. 図鑑を手にして

    昆虫の標本を作るときには、種名や採集地・採集日を記入したラベルを添えなくてはなりません。種類を見分けるために、基本的な種類は全て頭にたたきこんでおくことが必要です。

    それには、昆虫図鑑がなんとしても必要でした。

    当時、体系的な昆虫図鑑といえば、主人が持っていた「新日本千蟲図鑑」だけでした。ところが、主人はその本を見ることを許してくれなかったのです。そこであるとき、夜中にそっと起きて、主人が寝ている部屋に行き、図鑑をこっそり広げてみました。ところが、図鑑を手に大きなため息をついてしまいました。「こんなにたくさんの種類は覚えきれない。」しかし、名前が覚えきれないという理由で辞めることは、絶対に嫌でした。だから、どんなに大変でもコツコツ一種ずつ特徴と名前を覚えていきました。

    図鑑を手にして
  6. 虫けらと呼ばれ

    平山昆虫標本製作所では、標本を製作して販売するのが仕事です。主な販売先は学校と一部の華族階級の人たちです。世間一般では、昆虫採集をする人などまずいませんでした。ですから、昆虫を一心に集めていると、通りすがりに「なんで虫けらなんか採っているんだ。汚らしい。」と吐き捨てるように言われることがたびたびありました。言われるたびに、自分が虫けらになったような、バツの悪い嫌な気分になりました。父親にも「そんな虫けら相手の商売なんかだめだ。早く商売替えをしろ。替えないなら勘当だ。」と言われました。一般の人たちは虫けら扱い。一部の人たちの貴族趣味。このギャップは非常に大きく、何ともはがゆいものでした。このことが、その後夘助さんを昆虫普及へと向かわせたのでした。

    虫けらと呼ばれ
  7. 志賀昆虫普及社の設立

    昆虫学の普及が夘助さんの夢。当時、どこへ採集に行っても「虫けらなんて採って何するんだ」と馬鹿にされます。多くの人の昆虫に対する無理解が残念でたまりませんでした。

    一度でも昆虫を採ったり、標本づくりをしてみれば昆虫学がどれほど奥の深い学問なのかわかるのではないだろうか。だから、昆虫採集道具・研究道具を自分で開発して作って、昆虫の楽しさを一般の人たちにも伝えたい…。その思いから、十年以上勤めた平山昆虫標本製作所を辞め、自分の店を持つことにしました。店の名前は、「とにかく昆虫学を日本人に広げたいという気持ちで店を始めるのだから」と「志賀昆虫普及社」とつけたのです。

    志賀昆虫普及社の設立
  8. 初のオリジナル商品

    昆虫学の普及のためには、何よりまず安い昆虫採集・標本作製用具の開発が必要でした。

    しかし、1931年(昭和6年)の世の中は、戦争に向かって動き出し、物資は徐々に乏しくなっていきました。

    それでも、昆虫針と補虫網はどうしてもつくらなければならないという意気込みだけはありました。それにはまず、いい職人が必要です。夘助さんは、金物細工の職人探しから始めました。しかし特殊な製品で、手間がかかる割にはお金にならないため、どの職人も作るのを嫌がります。方々の金物職人を訪ね、無理を承知で頼みこみました。ご馳走したり、おせじを言ったりとあらゆる手を尽くして、何ヶ月もかかって、やっと承知してもらいました。こうして、初のオリジナル商品であるシガ洋銀昆虫針が誕生しました。

    初のオリジナル商品
  9. 昆虫の楽しさを普及

    昆虫を広めるには、子どもに昆虫採集を遊びの一つとして楽しんでもらうのが一番と思いました。雨の日には店先にテーブルを置いて、そこで標本作りをしました。いわば標本作りの実演販売です。

    「うわぁ、カブトムシだ」「あ、チョウチョの標本だ」と、道を歩く子どもたちが近寄ってきました。大人も物珍しそうに覗き込んでいきます。

    さらに夏には、三越、高島屋などの百貨店で、標本の作り方のデモンストレーションをし、子どもたちからの昆虫の相談に応じたのでした。大勢の子どもたちが集まってきて、作業する手元を食い入るように見つめていました。百貨店で大々的に宣伝したせいか、着々と昆虫熱が広がっていたのです…。

    昆虫の楽しさを普及
  10. さびない針が作りたい

    戦争が終わり、防空壕に入れてあった標本を取り出してみると、洋銀製昆虫針の全部に青さびが出ていました。これではだめだ。洋銀ではなく、何かさびないもので針を作らなければ…。思案の末、ステンレスで作ることを思い立ち、職人に持ちかけます。しかし、どこへ行っても「ステンレスは硬いのでとてもできない」とすげなく断られました。

    何ヶ月もほうぼうを探し歩き、ようやく腕のよい職人を見つけて、ようやくステンレス針ができあがりました。画期的なさびない針の誕生です。その後も20年以上かけて開発を続け、ようやく使いやすい有頭ステンレス針が完成しました。何としてでも作りたかった商品だったので、すがすがしい気持ちになりました。

    さびない針が作りたい
  11. 昆虫ブームの到来

    そして1965年(昭和40年)ごろ、昆虫ブームに火がつきました。夏休みの宿題に昆虫標本作りが出され、子どもたちは競って昆虫採集に熱中したものでした。昆虫ブームの頃は、各地で昆虫の採集会が催されます。夘助さんは一緒に出かけては子どもたちの質問に答えたりしていました。「子どもたちの昆虫が欲しい。昆虫を知りたいという気持ちが嬉しかった。」と夘助さんはおっしゃっています。「虫けら」などとはもう誰も言わなくなりました。待ち望んでいた「昆虫普及」の時代がやってきたのです。夘助さんのそれまでの苦労が報われたのです。

    昆虫ブームの到来
  12. 蝶の標本を故郷に

    昆虫採集や昆虫標本の普及に努めた功績が認められ、1992年(平成4年)、松之山町(現十日町市)の名誉町民になりました。生家の近くには、全国の昆虫愛好家など800人もの個人・団体から集められた募金を元に、顕彰碑が建てられました。それを機に、秘蔵のチョウのコレクション約3800点を松之山町に寄贈しました。寄贈した標本を展示する施設をつくろうという話になり、2003年(平成15年)に「森の学校」キョロロが建てられたのです。日本の昆虫学の発展に偉大な貢献をされた夘助さんは、2007年(平成19年)4月、104歳で静かに息を引き取られました。夘助さんが生涯をかけた昆虫普及への功績は、「昆虫採集の父」、また「日本一の昆虫屋」として、これからも語り継がれていくことでしょう。

    蝶の標本を故郷に

インフォメーション

十日町市立里山科学館 越後松之山「森の学校」キョロロ

〒942-1411 新潟県十日町市松之山松口1712−2
Tel : 025-595-8311 / Fax : 025-595-8320

開館時間

9:00~17:00 (最終入館16:30)
※2021年11月25日(木)〜
2022年2月21日(月)の
閉館時刻は16:00(最終入館15:30)

休館日

火曜日(火曜日が祝日の場合は翌平日)

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